“諦めない” ことと “執着しない” こと

“諦めない”  ことと “執着しない” こと 、真逆のことを言っているようだけど、どうすればよいのかしら・・・。

って、思いますよね。

 

あなたが赤ちゃんだった頃を思い出してみてください。

あなたは『おしめが外せないかも』とか『歩けないかもしれない』とか、先のことを心配しましたか?

あなたはトイレトレーニングがうまくいかなかった時、『自分はできないんだ』と諦めましたか?

あなたは立てなくて、何度もしりもちをついてしまったとき『自分は立てないんだ』と諦めましたか?

 

記憶がなくて分からないけれど、きっと赤ちゃんの頃は、そんなことは考えもせずに、ただただ、何度もしりもちをついても立ち上がる練習をして、歩く練習をしたはずです。

トイレがうまくできなくても、自分の感覚を頼りに、いつトイレに行けばいいのかタイミングをつかむまで何度もチャレンジしたはずです。

 

そして、その時に余計なことは考えず、悩みもせずに、ただただ立って歩きたい一心で行動し続けた結果、歩けるようになって、一人でもトイレに行けるようになりました。

きっと、赤ちゃんの頃に諦めていたら今も、出来ていなかったことでしょう。というのは極端な話しですが、でも、赤ちゃんの頃は余計な心配をしたり不安になったりせずに、

出来ることが当たり前という感じで、出来るまでチャレンジし続けたことは確かです。

 

成長する過程で、上手くいかなかったことを、『自分には向いていない』とか『自分には無理』といって、途中で諦めてしまうのです。

まぁ、最初からやる氣が起こらなかったり、興味がわかないということもあるかもしれませんが、やってみたいと思って始めたことさえも上手くいかなくなったときに諦めてしまいがちになります。

 

社会的にある程度の基準などがあり、スポーツなども優秀な人が選ばれるというような現実的なこともありますが、諦めたことで好きだった氣持もふたをしたりすることもあります。

 

先日、とあるTV番組で、過去にトラブルに見舞われ、好きだったことが出来なくなる辛い経験から、その好きだったことを避けるようになり、長い間離れていたいけれど、

時間が経つとやっぱり好きだという氣持ちに氣づき、違う形で好きだったことに関わるようになっていった方の話しが放送されていました。

ある程度の妥協をしたり、諦めることで現実社会と摺合せを行う部分もあるのでしょうが、諦めなければ、思った通りの状況ではなかったとしても、何等かの形で想いが形になっていきます。

諦めてしまえば、そこで終わってしまうのですよね。

でも、ここで言っている“諦めない” ことは執着とは違います。

この場合は、“ものごとを投げだしそうになっている状態”ですから、諦める時ではないのです。

 

そして、執着になったときは、エゴで周りが見えなくなり、自分の想いだけに固執している状態です。この時は、諦めや手放しが必要になります。

 

“諦め”は、仏教では“諦観”といい、“明らかに観る”ということの意味です。

ですから、執着になっている時は諦めが必要です。

客観的にものごとを観て、宇宙の真理、因果の法則を知ることです。

 

ものごとを投げ出しそうになっている時は、諦めずに、取り組むことが必要ですし、執着している時は、諦めて手放すことが必要です。

 

先の好きだったことが出来なくなる辛い経験から人生も投げ出しそうになっていたけれども、諦めた結果:明らかに観た結果、自分がそのものごとを好きなことに氣が付き、違う形で関わるようになったということですね。

 

エゴの状態によって、諦める時と、諦める時ではない時があります。

そして、諦める時に、諦めて手放すと、流れが良くなっていきますよ。