先日コンビニエンスストアで、レジ前の列に並んでいたら、1番前の人が少しレジから離れていたので、並んでいると氣がつかなかった人が先にレジを済ませました。
店員さんも何も言わずにそのまま会計をしていたのですが、並んでいるのに氣がつかずに先にレジを済ませた人も、わざと意図的にではなく、氣がつかなかっただけです。
また別の日には、バスに乗っていた時、停まったバス停で乗車が終わってドアが閉まり少し動き出したところで1人お客様がやってきたのですが、運転手さんは車線変更のためにそちらに意識を向けていて、お客様に氣がつかずにそのまま出発しました。少し動きだしていて急ブレーキをかけるのも危ないので仕方がないのですが、そのお客様は『開けてくれても良いのに』と言うような眼差しをバスが走りだした後も向けていました。目の前に乗りたいバスがいれば仕方ありませんよね。運転手さんからすると、安全のために配慮した結果でもあるのかもしれませんし、氣がついていなかったのでしょう。
その後、次のバス停では、信号待ちで停車中だったこともあり、外で待っていた方がバスの乗り場が分からなくて運転手さんに質問したところ、運転手さんはバスをわざわざ降りて質問なさったお客様に笑顔で丁寧に乗り場と時間を教えていました。
きっと、最初のお客様は、運転手さんのことをあまり良くは思っていないでしょうが、次のお客様は、運転手さんに対してとても親切な方と言う印象を持ったことでしょう。(わたしの勝手な想像ですが。)
このように、わたしたちは氣がつかないうちに誰かに対して嫌な感じを与えていたり、勝手にある側面を見ただけで『あの人はそういう人なのだ』と決めつけていたり、思い込んだりすることを少なからず経験しています。
まぁ、自分が氣がつかないうちに人に嫌な感じを与えている場合は、自分が氣がついていないのですから、経験していても分かりづらいかもしれませんが、一般的には、意図的にしたことでなくても誤解からそのような状況になっていることが多々あります。
わたしたちは、相手のある側面を観ただけで判断してラベルを貼りがちです。
そして、このような少しのタイミングのズレや、意図しないところで発生した誤解などで人は嫌な思いをしたり、その人をあまり良く思わなくなったりすることがあるけれど、そのことに捉われて氣にしてイライラしたり、あまり良い氣分で過ごせなくなるのは、エネルギーの無駄遣いかもしれません。
たまたまそのような状況になってしまって、誰のせいでもないことに捉われているのは、自分で自分をあまり良くない状態にさせているだけです。
わたしたちは、このように意図しないところで誰かが何かを氣がつくために嫌な役割を演じることもあります。また、逆でわたしたち其々が何かに氣がつくために、周りの誰かがその嫌な役目を引き受けてくれていることもあるのです。
でも、誰かを責める必要も、自分を責める必要もありません。
わたしたちは、日常では一般的には、ある出来事で関わった人の、ほんのある側面しか目にしていません。ですから、起こっている出来事の表面的なことだけで判断せずに、その出来事の背後にあるものを観ることが出来れば、外の出来事に振り回されずに感情も出来るだけ安定した状態で過ごしやすくなります。
また、このように役目を演じているのだということを知ることができると、対手や出来事に対して違う見方や捉え方も出来るようにしやすくなります。
また、経験することを通して、自分自身の状態を知ることもできます。
自分の氣持ちに振り回されるのではなく、その背後にあるものを観て自分の状態を知り自分に戻り成長する機会としていきましょう。